
真田信繁(幸村)は、天下分け目の関ヶ原の合戦に際し、信州上田城で徳川秀忠の大軍を手玉にとる奮戦をしました。
しかし、西軍の敗北によって父の昌幸と共に高野山へ流罪となり、当社にほど近い九度山の地へ移されました。
かつて当社では、葛城修験の神事であった神還会(現在の神還祭の由来)が執り行われていました。
ある年、信繁は懇意にしていた高野山蓮華定院の僧から、この神還会に誘われますが、腹痛により急遽欠席をしたといいます。
蓮華定院には、これを詫びる信繁の手紙が残されています。
当社と九度山は高野山の参詣道・町石道で結ばれています。
信繁は、流人の身の寂寞もあり、たびたび当社を訪れていたのではないでしょうか。
真田の代名詞ともいえる、甲冑の「赤備え」。
精鋭部隊の象徴である赤い色は、丹生都比売大神のつかさどる丹(水銀朱)で染められたものと伝わります。
元寇以来、勝利の神とも崇められた丹の女神の前で、信繁は武人としての再起を願ったことでしょう。
慶長19年(1614)、信繁は丹染めの赤備えに身を包み、大阪城へ馳せ参じました。
「大阪の陣」での赫赫たる戦功から、信繁は「日本一の兵(つわもの)」と称えられることになったのです。
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