
外鳥居
ここから先は神域となります。
鳥居の様式は両部鳥居と称され、神仏習合の性格を色濃く残す神社に多いものです。
両部とは、密教の金胎両部(金剛界・胎蔵界)に由来します。
輪橋
御祭神のお渡りになる神橋です。
鎌倉時代からこの場所に橋が架けられていました。
現在の橋は、豊臣秀吉の妻である淀殿が奉納したものと伝わります。
※現在、橋板の損傷のために閉鎖をしております。
鏡池
人魚の肉を食べ不老不死になったとされる八百比丘尼が、この池の小島に宝鏡を納めたという伝承があります。
紀伊続風土記には、江戸初期の寛永四年に、池より八百比丘尼の宝鏡が見つかったとの記述がみえます。
禊橋・中鳥居
境内を流れる禊川に架かる禊橋には、その擬宝珠へ祓い幣と辰砂が納められています。
その力によって、渡る参拝者の心身を祓い清めます。
中鳥居は、外鳥居同様に両部鳥居の様式をとります。
楼門
本殿前に聳える、入母屋造・檜皮葺きの堂々たる丹塗りの楼門です。
室町時代の造営で、国の重要文化財、また世界遺産に登録されています。
通常のご参拝は、この楼門前からとなります。
本殿
一間社春日造・檜皮葺きの四殿が並びます。
一間社春日造りとしては最大級の社殿とされます。
室町時代に造替されたもので、国の重要文化財、また世界遺産に登録されています。
この本殿の姿から、当社には「四社明神」の別称があります。
大峯修験者の碑
当社は神道・仏教と共に修験道の霊地でもあります。
これらの石碑は、吉野の大峯へ入峯する修験者が建てたものと伝わります。
和歌山県の文化財に指定されています。
光明真言板碑
光明真言曼荼羅碑とも呼ばれ、江戸時代前期に建立されたものです。
梵字の光明真言が時計回りに円を描いて刻まれています。
脇ノ宿石厨子
かつて神社より北東に位置した脇ノ宿にあった、修験道の開祖・役行者を祀る祠です。
大正時代にこの場所へ遷されました。
多宝塔・御影堂跡
平安中期から後期の高野山荒廃期に、その復興に尽力した天野検校・雅真が建立した二層の多宝塔の跡です。
丹生都比売神社に付随した寺院の中心となった場所で、平安後期に落雷により壇上伽藍が焼失した際には、三十年以上に及び、ここが高野山復興の本拠となりました。
また、その隣には、源頼朝の妻の北条政子が建立した御影堂の跡があります。
女人禁制により、高野山へ登ることができない女性たちのために建立されたと伝わります。
この堂は女人高野の一つとなり、天野は尼僧や高野山に出家した者ゆかりの女性が多く集いました。
この多宝塔と御影堂は、明治の神仏分離令により破却されました。
佐波神社
明治後期に、当社の創祀に関わる三沢明神(奥之沢・中之沢・柳沢)をはじめ、上天野地区の諸社を合祀した神社です。
のちに三沢明神は旧鎮座地へと戻されました。
二ツ鳥居
高野参詣道・町石道に立つ二基の石鳥居です。
ここから天野を展望することができ、当社の遥拝所とされます。
また、ここから当社への参詣道・八町坂が続いています。
(当社・二ツ鳥居間 徒歩約30分)
八町坂
丹生都比売神社と高野参詣道・町石道を結ぶ道です。
かつて町石道を行く巡礼者は、ここから天野におりて、丹生都比売神社を参拝するのがしきたりでした。
また、近道になることから、三谷坂と八町坂を経由して、途中から町石道へ進む巡礼者も多かったといいます。

〒649-7141
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
お電話:0736-26-0102
(毎日午前8時45分から午後4時30分)
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