神仏融合の荘厳な芸能「舞楽曼荼羅供」

鎌倉時代の始めから江戸末期まで、高野山の僧侶により、守護神である当社の神前で、鎮護国家(国の平和と人々の幸せ)を祈る法会が行われました。 その際、大陸から渡って来た荘厳な芸能である舞楽が、神々へのお供え物として行われていました。 江戸時代には、「天野社舞楽曼荼羅供(あまのしゃぶがくまんだらく)」として、神社の遷宮時に盛大に奉祝行事として行われるようになりました。 (丹生都比売神社の鎮座地の地名が「天野」であることから、当社は「天野社」とも呼称されていました。)

盛大な奉祝行事としての舞楽

もともと舞楽は、仏教とともに朝鮮半島から日本に伝わり、都の中心の寺院で僧侶による国の安泰を祈る鎮護国家の法要のために、あるいは、宮中の行事や神社の神事として行われてきました。 舞楽は、神様への供え物としてだけではなく、神前は神と人が相ともに楽しむ「神人和楽」の空間でもあったのです。
都を離れたこの天野の地で長年に亘り、都から三方伶人(京都・奈良・大阪)を招き、30余名による舞楽が奉納され、高野山の僧侶100余名による法会が、国の安泰を祈る行事として、社頭で行われてきたのです。
この舞楽のために優美な装束が数多く新調され、法会にかかる費用は莫大で、一つの荘園の年貢を充てたとも伝わっています。

神仏共存の伝統的景観

ユネスコは、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録理由として、特に「神道と仏教の融合した文化的景観」を評価しています。
ここ高野山と当社の関係には、千年以上に亘る神仏共存の姿があり、その象徴として、この行事があります。
日本の伝統的な神事では、その祈りに際しその場を清める祓い、神饌や芸能によるもてなしが重要とされます。日本神話に伝承される、アメノウズメの舞にはじまる神楽は、神事芸能の代表と言えましょう。
当社では、高野山僧侶の声明(しょうみょう)と三方伶人の舞楽とが神々に捧げられたのです。厳粛な祈りとともに神を喜ばせ、関わる高野山の僧侶、神主から見物人にいたるまで、この時ばかりは、神とともに舞楽を楽しんだことでしょう。

象徴的儀礼としての側面

もともと弘法大師の入定の地の高野山上では、「修学を妨げる魔障」「閑寂を乱す蠹害(とがい)」(文永八年[1271]「金剛峯寺年預置文案」)などとして、古来管絃歌舞が禁止されていました。「高野春秋」には、豊臣秀吉が山上で能の興行を企てたところ、晴天が変じ俄に激しい雷鳴が起こり、山が崩壊するかのごときなり、秀吉は逃げるように下山したという逸話までもが記されています。 こうした高野山ですから、山上の法会では京都周辺や南都の寺社のように華やかな音楽や舞楽は古来用いませんでした。しかし、このことは高野山と音楽・芸能が無縁であったことを意味するわけではありません。高野山の僧侶は中腹の天野社へも定期的に下りて来て、一切経絵、法華八講、曼荼羅供などを営みましたが、天野社での法会においては、舞楽、田楽、猿楽を発し、室町中期から江戸末期まで継続した遷宮の折の舞楽曼荼羅供は、高野山一山をあげての重要な法会でもありました。
これは、神仏習合の時代の高野山における鎮守社の意義や両者の関係を内外に確認しあう象徴的な儀礼ともなっていたと考えられます。

象徴的儀礼としての側面

そして、高野山の矜恃からか、中世の舞楽面、舞楽装束の伝承品を見ても、近世の三方楽所の出仕を見ても、いずれも当時の最高水準の舞楽を求めて行ってきたことがうかがわれます。興福寺や天王寺のように独自の楽家こそ擁しなかったものの高野山もまた舞楽の力を感得し、舞楽を重んじていたのでした。

平成二十六年の遷宮時に復興

明治期に断行された神仏分離により、神社の境内から仏事に関わる堂塔が一掃され、神社との関係が断ち切られて以来、天野社の社前の盛大な舞楽曼荼羅供は営まれなくなり、伝来品を残すのみになって今日に至っています。
平成二十六年には、平成のご造営により、本殿修復が完成し、遷宮が行われました。奇しくも翌二十七年には高野山開創千二百年を迎えました。
日本人の誇るべき宗教の融和の精神や、異なる文化を受け入れる柔軟性という特質を象徴する、日本人の祈りの形「天野社舞楽曼荼羅供」が関係各位のご尽力を頂き、芸能公演として復興され、国立劇場大ホールに於いて、平成25年9月14日に公演が行われました。

さらに、平成27年5月16日には、高野山開創千二百年法会のひとつとして、当社神前に於いて「舞楽法会」が奉納されました。