
丹生都比売大神は、「播磨国風土記逸文」の中で神功皇后の三韓征伐を勝利に導いたことが記されており、
戦いの神・勝利の神としての性格は古代より有していたと考えられています。
		この軍神としての御神威が広く知られるようになったのは、鎌倉時代の元寇以降のことです。
		
		圧倒的な軍事力を誇り、当時のユーラシア大陸を席巻し広大な世界帝国を築いたモンゴル(元)の皇帝フビライは、
我が国に対しても従属を求めて大軍をもって侵攻を開始しました。
		中世日本最大の国難とされる、元寇・蒙古襲来です。
		
		第一回目の侵攻(文永の役 1274年)を辛うじて防いだ鎌倉幕府は、再び訪れた従属勧告の使者を斬首すると、
防衛体制を整えると共に諸国の大社寺には異国降伏の祈祷を命じ、次なる侵攻へ備えていました。
		
		国内に緊張が漂う弘安4年(1281年)4月、丹生都比売神社に御祭神より託宣が下ったと伝わります。
		その内容とは、
		「モンゴルの侵攻にあたり、諸国の神々が集まり会議を行った」
		「会議の結果、天野大明神(丹生都比売神社の四柱の神)が出陣し迎え撃つこととなった」
		「出陣は4月28日丑時で、それまでに様々な瑞相(吉兆)が起こる」
		「来る6月7月中に本朝(日本)は安全になるだろう」
		というものでした。
		
		4月21日には、境内に群がった数千羽の烏が一つがいを残して一斉に飛び立ち、
また当社の参詣道三谷坂入口の丹生酒殿神社でも社の扉がひとりでに開き、
神馬が西へと走り去る鈴の音がしたといいます。
		出陣が予告された28日には、社殿が地震のように鳴動し、
怪しい光も激しく輝き天変地異が起きたかのようであったと記録されています。
		
		6月、モンゴルは14万もの大軍をもって第二回目の侵攻(弘安の役)を開始します。
		海上に現れた大船団の報に人々は恐れおののきましたが、
やがて丹生都比売神社の託宣のことが広まると皆が歓喜したといいます。
		
		そして閏7月1日、防塁と御家人の奮戦により博多上陸を果たせず、肥前の鷹島に集結していたモンゴル軍は、
暴風雨の直撃を受けて壊滅状態となり、7日までに掃討されて戦闘は終結します。
		後世に神風と呼ばれた出来事です。
		まさに6月7月中に本朝安全という、丹生都比売神社の託宣の通りとなったのです。
		
		鎌倉幕府はこの勝利を丹生都比売大神の御神威と畏れ敬い、弓箭・御剣・幣帛を献じたとありますが、
当社の所蔵する国宝・銀銅蛭巻太刀拵また葦手絵兵庫鎖太刀をはじめとする重要文化財の5口の太刀は、
この時に鎌倉幕府が奉納したものと考えられています。
		
		また、和泉国近木荘(大阪府貝塚市)が新たに神領として寄進され、
さらに数年後には丹生都比売神社は紀伊国一之宮に定められました。
		
		この元寇・弘安の役においての当社の託宣に関する記録は、近木荘をめぐる訴訟に関する鎌倉幕府の公文書、
またそれを引用するかたちで朝廷の公文書である太政官牒(興山寺文書)にも記されています。
		当時は広く知られていた内容のようです。
		
		元寇の勝利以来、特に武士からは軍神とみなされ、戦いの神、勝利の神と崇敬されるようになりました。
		かの真田幸村(信繁)も当社を崇敬したとされます。
		
		中世以降、「高野四社明神像」あるいは「高野四所明神像」として、
当社の四柱の御祭神が並んだ図像が数多く描かれましたが、
その中にはモンゴルとの戦いへ出陣される姿を描いた「異国征伐四社明神像」と呼ばれるものもあります。
		
		
		« 赫赫必勝(必勝・成功・合格)に戻る

〒649-7141
		和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
		
		お電話:0736-26-0102
		(毎日午前8時45分から午後4時30分)
		
		 
 