神道と仏教が融合した文化的景観

「紀伊山地の霊場と参詣道」としての世界遺産

丹生都比売神社は、平成十六年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山、熊野、吉野地域とともに世界遺産に登録されました。
これは、弘法大師高野山開山以来の守護神である当社と高野山の関係に、神と仏を大切にする日本人の祈りの源泉があるとされたものです。
日本人にとって、「神と仏が共存する信仰」はあたり前のことですが、ユネスコはまず「日本古来の信仰である神道とインドから東アジアに伝わった仏教がこの地において融合し、現在まで1200年にわたりその関係が続き、それらの文化的景観が残っていること」をあげ、その関係を「ユニーク(他に類がない)」と評価しています。

「神道と仏教の融合」の始まり

1200年前とは、弘法大師空海によって、高野山が開創されたことを指します。弘法大師は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求めました。
そして、まず守護神として当社の神である丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりです。

神と仏が共存する日本人の宗教観の形成

高野山の縁起によると、唐で習得した真言密教の道場となる地を求める弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人が現れ、弘法大師を高野山へ導いたと伝えられています。
この狩人は丹生都比売大神の御子である高野御子大神が化身された姿でした。丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け高野山に根本道場を開いた弘法大師は、丹生都比売大神と高野御子大神に深く感謝し、高野山の守護神(明神)として、山内の壇上伽藍に御社(みやしろ)を建てお祀りしました。
これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。
中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。

現在の境内の静かなたたずまいからは想像が難しいですが、昔の絵図や文献を紐解くと、当社には神職だけでなく、多くの僧侶が住まってにぎやかな様子が描かれております。 今日も大伽藍内「御社」の拝殿(山王院)において、「明神さん」へ読経が捧げられていますし、当社の楼門の下で僧侶が一心に般若心経を唱えている姿を見かけることは少なくありません。

神と仏が融和する祈りの源泉としての当社

真言密教の根本道場として空海が創建した「金剛峯寺」と、丹生都比売大神と高野御子大神が祀られている当社「丹生都比売神社」、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守社として建立された「丹生官省符神社」、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため政所として山下に建立された「慈尊院」からなる一帯が世界遺産に含まれますが、それぞれが高野山参詣の表参道である「高野山町石道」で結ばれています。当社は、「金剛峯寺」と「慈尊院」の中間地点に位置し、神社境内の入口に二つ鳥居があり、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習とされていました。

「明神さん」は学びの守護神ともなりました。高野山で修行する僧侶たちは、修行の節目には必ず当社を訪れます。祈願をこめた護摩札を掛け、これまでの神様の加護を感謝し、さらなる精進を誓って般若心経を唱えて、「南無大明神」と結びます。 このような神と仏が融和する姿の中に、ユネスコが評価した日本の和やかな信仰のありかたを見ることができます。

神の地を志した弘法大師

高野山を根本道場とした弘法大師の意図

「聖地」としてふさわしい神が住まう空間

弘法大師が高野山を選んだ理由として、近年、松田壽夫博士が『丹生の研究』で述べているように「水銀の経済的価値を認めていた弘法大師は、留学先の唐で学んだ採掘と製造の新技術をもたらし、高野山経営の経済的な裏付けを求めた」との説もあります。しかし、文献的に高野山においても丹砂が採取された記録は残っておらず、確信にいたるものではありません。
当社が鎮座する天野の地は古来、神のみが鎮まる場所とされていました。天野と高野を合わせて神々の住む天上の「高天原」を意味する地であったのです。唐へ留学する以前、若き弘法大師は山野をめぐる修行の歳月を送り、その中で高野山にも足を踏み入れたといわれています。根本道場を開く地を求めた弘法大師の脳裏に、それにふさわしい聖地として浮かんだ場所、それが高野山だったのではないでしょうか。

自然と先祖に対し「守り守られる」という日本古来からの信仰

弘法大師は、真言密教という新しい教えを広く庶民の間にも伝えようとしました。それまでの仏教は天皇や貴族などのためのものであり、仏教の経典を読み、実践できるのは教養や財力のある一部の人々のみだったのです。 対して、日本古来の信仰はというと、自然の中に神々の姿を見い出し、自然を敬い大切にすることにより、自然に守られる。また、先祖を大切にすることによって先祖に守られる。このような自然と先祖に対する「守り守られる」という関係を大事にしてきました。

「信仰」と「教え」の融合を試みた弘法大師

山は天から降りてきた神々が鎮まる場所であり、先祖の魂が集まり、天に上っていく場所でもあります。弘法大師はこのような信仰観と密教を融合させ、新しい仏教を成立させたように思えます。そういう山を拠点に「真言密教を庶民まで広める」という一大事業に乗り出すとき、「神様、お守りください」と祈った弘法大師が、誠に日本人らしく思えるのです。

脈々と受け継がれる神と仏との共存関係

弘法大師の姿勢は弟子たちによって守られてきました。 現在も高野山では、丹生明神、高野(狩場)明神に、「明神さん」として壇上伽藍にある御社(みやしろ)に篤く祀られています。御社の拝殿(山王院)では、僧侶たちの読経が毎日欠かさず続けられ、各寺院では「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と弘法大師を称えるとともに、明神さんを称え「南無大明神(なむだいみょうじん)」と唱えられています。

修行に欠かせない「明神さん」

高野山で僧侶になられた方は、100日間の修行「加行(けぎょう)」を終えると、当社に守護を願うお札を納めに来られます。また中堅の方々は「勧学会(かんがくえ)」という法会を勤め、その始めには、「無事勤められますように」との願いをこめて、そして終わりには無事勤められたことを感謝して、当社神前で法楽(読経)を捧げます。
さらに修行を積まれた方々の中から、毎年2名の僧侶が当番として選ばれ、それぞれ寺院内に1年間、「明神さん」をお祀りします。その間、山を下ることは許されず、精進潔斎してその勤めを果たし、さらに山王院において「竪精(りっせい)」という問答講を修めて、高僧の位である「上綱(じょうごう)」と言う地位に就かれます。
これらの行事からは真言密教という尊い教えを学ぶ課程において、「明神さん」が守護神としての役割を果たしていることがうかがえます。

融和のこころ

世界的に「ユニークな」宗教的融和のこころ

「神仏分離令」以来130年ぶりの奉仕

また、高野山上の御社は20年に一度、屋根の桧皮葺(ひわだぶ)きを葺替え改修することになっています。その間、神さまには別の場所に仮住まい願い、竣工後お戻りいただくのですが、その際には遷座祭という祭儀があります。いずれも明治の神仏分離令が出る前は、当社の惣神主が奉仕しておりました。 平成16年高野山からお話があり、およそ130年ぶりに私たちもその遷座祭に奉仕させていただくことになりました。丹生家文書を頼りに、古来の形式により近い形を模索し、当日を迎えました。神道式の祓いに始まり、祝詞奏上(のりとそうじょう)高野山の僧侶の方々の読経、200名からの遷座の行列が壇上伽藍を進みました。何の違和感もなく進んでいく儀式に、当社の神主が奉仕から遠ざかっている間も、僧侶の方々によって神祀りの形が守られていたことが感じられ、深い感銘を覚えました。

宗教的融和こそ共存のカギ

現在、世界中で宗教紛争が起こり、この瞬間にもたくさんの尊い命が失われています。日本人には宗教の違いでこのようなことが起こるのが理解できません。これは、我が国では古くから神と仏が共存し、守るべきものは守り、受け入れるべきものは受け入れてきた日本人の民族の精神によるものです。また、自然との共存が忘れられた今、自然破壊が進み地球温暖化は待ったなしの状況です。今こそ我々が先祖から受け継いだ、世界的には「ユニークな」宗教的融和のこころと、自然を敬い共存する精神が求められています。