高野山麓・標高450メートルの高地に広がる天野盆地。四季折々の豊かな自然に包まれ、初夏にはゲンジボタルが舞い、秋には黄金に輝く稲穂の海が揺れる天野の里は、「日本の里100選」に名を連ねています。
随筆家の白洲正子は、その名著「かくれ里」の中で〝天野の名にふさわしい、天の一角に開けた広大な野原〟として、その美しさを「高天原(神々の世界)」にたとえました。
天野の里は、丹生都比売大神の霊地であるとともに、平家物語ゆかりの伝承を残す地、また高野山女人禁制の時代に、出家した女性が庵を結んだ女人高野でもあります。
信仰と歴史、そして豊かな大地の恵みが息づくかくれ里、天野の里へようこそ。
丹生都比売神社の鎮守の杜の傍らに、いつの頃からか、丹生明神(丹生都比売大神)と高野明神(高野御子大神)を祀る祠があります。最古の祝詞の一つとされる「丹生大明神告門(にうだいみょうじんのりと)」によると、丹生都比売大神はこの奥の小都知ノ峯を越えて、ここから初めて天野の地へ足を踏み入れられたといいます。
神域に隣接するこのあたりには、鎌倉時代頃から丹生都比売神社に仕える神職と僧侶が居を構えていました。中之沢明神は丹生明神と高野明神を祀り、ここに住まった神職と僧侶が祭祀を執り行ったと伝わります。また、高野明神が初めて天野の地に足を踏み入れたのが、この地とされています。
水の湧き出る木立の中に丹生明神と高野明神が祀られています。かつて大きな柳があったことがその名の由来といいます。伝承によれば、この地で丹生都比売大神が弘法大師の前に現れ、神領であった高野山を授けたとされます。そのことにより、竪義の神として高野山の僧侶からも大切にされています。
柳沢明神の手前に位置し、弘法大師が高野御子大神の化身した狩人と出会った場所と伝わります。かつては葛城修験の行場でした。
南北朝時代の応永二十三年(1416)の秋の彼岸中日に、念仏講の人々により建立されたものです。この頃から天野では念仏講が盛んに行われていたといいます。横にある板碑は、江戸時代の慶安元年(1648)に建てられた庚申塚です。
高野山奥の院の燈籠堂に千年近く輝き続ける「貧女の一燈」を捧げたお照の供養塔です。養父母の菩提を弔うために、髪を売って捧げた孝女お照の一燈は、一万の燈籠を捧げた長者の慢心を戒め改心させました。長者はお照のために天野へ庵を建て、お照はそこで生涯を送ったといいます。江戸時代の天和二年(1682)に妙春尼によって、この供養塔が建てられました。
平重盛に仕える武士・斎藤時頼は、建礼門院に仕える白拍子・横笛と恋仲でした。しかし身分違いの恋は許されず、時頼は想いを断ち切るために出家して女人禁制の高野山へ入ります。横笛は天野の里に庵を結び、時頼との再会を夢見ましたが、叶うことなく十九歳の若さでこの世を去りました。この時、横笛の魂が鶯に姿を変え、高野山の時頼のもとへ現れたといいます。平家物語巻第十にも描かれた悲恋の物語です。この塚は、横笛を哀れみ、天野の里人が建立したものと伝わります。
鳥羽院に仕えた武士・佐藤義清は、出家し西行と名乗り、各地を巡って多くの歌を詠み、歌聖として知られています。西行は高野山に三十年近く居を構えましたが、その妻女が庵を結んだのがこのあたりであったと伝わります。庵はいつしか西行堂と呼ばれ、幾度か再建されつつも天野の里人により守られてきました。現在のお堂は、壁に西行の姿が描かれています。
西行の出家より二年後にその妻も出家し、西行の出家の際にすがりつき蹴落とされたと伝わる娘も、十五歳の時に出家しました。西行の妻娘は、天野の地で読経三昧の生涯を送ったといいます。西行堂の下には、六地蔵に囲まれて西行妻娘が眠っています。
小高い丘の上に、石塔と五輪塔が並んでいます。西行妻娘の宝篋印塔と伝わる二つの石塔は、南北朝時代の作と推定され、保存状態も良く県の指定文化財となっています。石塔後方に並ぶ小型の五輪塔は、鎌倉時代の仇討ちで知られる曽我兄弟の郎党であった鬼王と団三郎の供養塔と伝わります。二人は兄弟の遺骨を高野山へ納め、この地で生涯を終えたといいます。
鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓と伝わりますが、実際には待賢門院に仕えた中納言の局の墓であるといわれています。西行の歌集「山家集」には、待賢門院の喪に服したのちに中納言の局が天野へ移り住み、旧知の西行と交流したことが記されています。
有王丸は、平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀の首謀者である僧・俊寛の従者でした。「平家物語」によると、鬼界ヶ島に流された俊寛のもとをはるばる訪れ、その最期を看取って遺骨を持ち帰ったといいます。天野の伝承では、有王丸は俊寛の遺骨を高野山へ納めたのちに、出家して天野で主の菩提を弔って生涯を終えたとされています。
創建年は不明ですが、弘法大師ゆかりの讃岐国の琴弾八幡宮を勧請したと伝わります。八幡神と共に丹生都比売命もお祀りされています。「紀伊続風土記」の中で「天野社(丹生都比売神社)は大社にして、一荘の氏神となすべからざるにより、当社を荘の氏神となす」と記されています。
町石道の112町石近くにある地蔵堂です。この場所は、平安の頃から巡礼者の休憩地でした。「平家物語」に描かれる横笛の悲恋の物語において、横笛が想い人を待ったのが、ここだと伝わります。神田の地名は、丹生都比売神社の神田があったことに由来し、手前にある応基池は、その神田のために応基上人が水の神である善女竜王を祀ったと伝わります。
丹生都比売神社には多くの雅楽面の名品が伝来しておりましたが、それらは金剛峯寺や東京国立博物館の所蔵品となっています。現在、当社が所蔵する面は、神事面や能面となります。
神輿の渡御行列の先頭を練り歩く
猿田彦役が着用する面です。
御田祭で用いられた面です。
江戸時代まで境内にあった
能舞台で用いられた面です。
ほぼ同型で同じ大きさの一対の獅子頭です。箱型の形状が特徴的で、製作時期は江戸時代と考えられています。神輿の渡御行列では、神輿の前後を挟んで、この獅子頭が並びました。
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