高野山麓の標高四百五十メートルに広がる天野盆地。作家・白洲正子が名著『かくれ里』の中で天上の「高天原」にもたとえ、いにしえには「天野原」ともよばれた、天野の里に当社が創建されたのは、千七百年以上昔のことです。
応神天皇勅筆と伝わる『丹生大明神告門』によれば、御祭神の丹生都比売大神は、天照大御神の御妹神であるとされます。神代に紀の川流域を巡幸されて、農耕や機織りを広められたのちに、この地へお鎮まりになられました。
丹生都比売大神のお名前にある「丹」とは、辰砂(朱砂)の鉱石より採取される赤い顔料をあらわします。古来この丹には魔を退ける力があるとされ、貴ばれてきました。現在でも、神社仏閣を赤く塗り(丹塗り)、お祝い事に赤を用いるのは、この丹に由来します。丹生都比売大神は、この丹をつかさどり、その力であらゆる災厄を祓う女神です。
また、辰砂からは水銀を精製することができます。水銀は鍍金や医薬として用いられましたが、液体状の金属という特異な形状から、不老不死をもたらし、卑金属を金へ変えると考えられ、洋の東西を問わず神秘的な力をもつとされてきました。この水銀も、丹生都比売大神がつかさどるものとされ、大神のご神威の神秘性を際立たせます。
丹生都比売大神は、いにしえより朝廷から篤い崇敬を受けていたと伝わります。『播磨国風土記』には、丹生都比売大神が神功皇后へ丹を授けたことが記され、また弘法大師の『御遺告』には、紀伊山地北西部一帯の広大な土地が、当社の神領として応神天皇より寄進されたことが記されています。この中には、霊地高野山も含まれていました。
当社と高野山を巡る縁起は、『今昔物語』などに描かれています。千二百年前、真言密教の根本道場とする地を探し求める弘法大師の前に、丹生都比売大神の御子神である高野御子大神が、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れました。このご神犬に導かれ、弘法大師は天野の地で、丹生都比売大神より高野山を授けられたのです。弘法大師は、大神を高野山の総鎮守・真言密教の守護神として崇敬し、高野山の中心である壇上伽藍においても、御社を築きお祀りしました。以来、丹生都比売神社の周囲にも仏堂・仏塔が築かれ、神職だけではなく僧侶によってもこの神社は守られてきました。平安末期に落雷で壇上伽藍が焼失し、山上が荒廃した際には、この地に高野山復興の本拠がおかれたといいます。高野山の参詣では、はじめに当社を参拝するのが、弘法大師以来のしきたりとされます。
鎌倉時代、この国に未曽有の危機が訪れました。「元寇」蒙古の襲来です。特に元軍が十四万もの大軍をもって攻め寄せた「弘安の役」において、丹生都比売大神の託宣が下りました。その託宣とは、元軍の襲来を予言すると共に、大神が日本の神々の先陣として出陣され、七月までに戦いは終わるというものでした。この託宣の通り、襲来した元の大軍は、閏七月一日の暴風雨により、海の藻屑と消え去ります。このことは、朝廷と鎌倉幕府の文書にもそれぞれ記されています。幕府は、元寇の勝利を大神のご神威によるものと畏れ敬い、国宝・銀銅蛭巻太刀拵をはじめとする宝刀の数々を献じ、当社を紀伊国一之宮と定めました。
災厄・国難を祓う女神として貴賤を問わず崇敬を集めていたこと。弘法大師へ高野山を授けて、その総鎮守となったこと。紀の川をはさんで聳える葛城山系が山岳宗教の霊場であったこと。様々な糸が紡ぎ合わされ、やがてこの地は、神と仏が共にある日本の信仰の世界の源泉となりました。
千年以上続いた「神仏習合」と呼ばれるこの祈りのかたちですが、明治の御代になると、大きな変革が訪れます。明治政府は神仏分離の政策を進め、その波は当社にも及びます。当社も仏堂・仏塔を廃され、僧侶も高野山へ退去し、その様子を大きく変えました。しかし、それでもなお神仏融和の日本の祈りの姿の要としてあり続け、大正十三年には当時の最高位の社格となる「官幣大社」へ列格されました。
平成十六年には、神と仏が共にある日本の祈りのふるさとであり、そして今なおその宗教的景観が守られ続けているとして、「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」へ登録されました。
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