丹生都比売神社史

世界遺産登録記念事業として、編纂委員会を組織し、5年間をかけて編纂事業を行い刊行いたしました。

丹生都比売神社史編纂委員会編 丹生都比売神社刊(平成21年)
頒価 6,000円

編纂委員

委員長  土生川 正道 (高野山真言宗前宗務総長)
副委員長 谷口 正信   (丹生都比売神社責任役員)
委員   岡田 荘司(國學院大學教授)     櫻井 治男(皇學館大学教授)
     日野西 眞定(前高野山奥の院維那)  山陰 加春夫 (高野山大学教授)
     添田 隆昭(高野山蓮華定院住職)   井筒 信隆   (高野山霊宝館前副館長)
     高木 徳郎(和歌山県立博物館学芸員) 古谷 敏晴   (丹生都比売神社奉賛会長)
     丹生 晃市(丹生都比売神社宮司)

執筆者

加瀬直弥(國學院大學専任講師)    藤井弘章(近畿大学専任講師)
高木徳郎(和歌山県立博物館学芸員)  遠藤  徹(東京学芸大学准教授)
伊藤信明(和歌山県立文書館嘱託研究員)

内容

週刊 日本の神社

 デアゴスティーニ刊
 号数:第78号
 発売日:2015/7/28
 本体:562円+税

丹生都比売大神ほか/彦五瀬命ほか/五十猛命ほか

紀伊国は古代、雨が多く山間に森林が生い茂っている風景から木の国とも称されたという。その天野盆地に鎮座する丹生都比売神社は神社背後の尾根上に高野山への 表参道が通っている。高野山僧侶が参拝する習わしなどがあり、高野山と深い関係を持った神社である。また、初代神武天皇の長兄である彦五瀬命が竈山に葬ら れたことが由来となった竈山神社と、木の神である五十猛命を主祭神とした三柱を祀る伊太祁曽神社も、木の国の雄大な山林に根ざす神社である。古代より鎮座 する3社は、いずれも紀伊の山々と関係が深いが、その在り方はそれぞれ異なっている。

世界遺産 高野山・熊野古道ベストコース完全ガイド 紀州和歌山県公式版

扶桑社刊(平成19年)
定価 1,995円

以下に当社宮司が語った 「高野山の守護神 丹生都比売神社」 を掲載します。

平成16年、「紀伊山地の霊場と参詣道」として当社を含むこの紀伊山地一体が世界遺産に登録されました。その理由として、ユネスコまず「日本古来の信仰である神道とインドから東アジアに伝わった仏教がこの地において融合し、現在まで1200年にわたりその関係が続き、それMbらの文化的景観が残っていること」をあげ、その関係を「ユニーク(他に類がない)」と評価しています。
この1200年前とは、弘法大師空海によって、高野山が開創されたことを指します。弘法大師は真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求めました。そして、まず守護神として当社の神である丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と高野御子大神(たかのみこおおかみ)を祀る社を建てました。これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりです。
当社の創建は『播磨国(はりまのくに)風土記』によると、今から1700年以上前。応神天皇により社殿と紀伊山地の北西部一体という広大な土地が神領として寄進されたと伝えられています。丹生都比売大神の”丹”は丹砂(たんしゃ)の鉱石から採れる朱を意味します。古来、朱には魔除けの力があり、悪いものを退ける強い神として信仰されました。鎌倉時代の元寇のときには幕府は当社に祈願し、その力により救われたとされています。現在でも神社仏閣の建物には朱が塗られたものが多いのもこの魔除けのためです。『魏志倭人伝』には「倭国(日本)に丹の山あり」との記述があり、3世紀、卑弥呼の時代には日本で朱が用いられたことがわかります。
この丹砂を加熱し、蒸発した気体を冷やしてできるのが水銀です。不老長寿の薬に、仏像の鍍金にと用途の多い水銀は当時、非常に価値のあるものでした。丹生都比売大神は、この地を本拠地に、全国に分布する丹砂を支配する一族の氏神として当社創建の以前より祀られて来ました。

高野山を根本道場とした弘法大師の意図

高野山の縁起によると、真言密教の道場となる地を求める弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人が現れ、弘法大師を高野山へ導いたと伝えられています。この狩人は丹生都比売大神の御子である高野御子大神が化身された姿でした。その後、丹生都比売大神に会い、神領である高野山を借り受けた弘法大師は高野山上に、この二神を守護神として祀ったと記されています。
弘法大師が高野山を選んだ理由として、近年、松田壽夫博士が『丹生の研究』で述べているように「水銀の経済的価値を認めていた弘法大師は、留学先の唐で学んだ採掘と製造の新技術をもたらし、高野山経営の経済的な裏付けを求めた」との説もあります。しかし、文献的に高野山においても丹砂が採取された記録は残っておらず、確信にいたるものではありません。
当社が鎮座する天野の地は古来、神のみが鎮まる場所とされていました。天野と高野を合わせて神々の住む天上の「高天原」を意味する地であったのです。唐へ留学する以前、若き弘法大師は山野をめぐる修行の歳月を送り、その中で高野山にも足を踏み入れたといわれています。根本道場を開く地を求めた弘法大師の脳裏に、それにふさわしい聖地として浮かんだ場所、それが高野山だったのではないでしょうか。
弘法大師は、真言密教という新しい教えを広く庶民の間にも伝えようとしました。それまでの仏教は天皇や貴族などのためのものであり、仏教の経典を読み、実践できるのは教養や財力のある一部の人々のみだったのです。対して、日本古来の信仰はというと、自然の中に神々の姿を見い出し、自然を敬い大切にすることにより、自然に守られる。また、先祖を大切にすることによって先祖に守られる。このような自然と先祖に対する「守り守られる」という関係を大事にしてきました。
その中で山は天から降りてきた神々が鎮まる場所であり、先祖の魂が集まり、天に上っていく場所でもあります。弘法大師はこのような信仰観と密教を融合させ、新しい仏教を成立させたように思えます。そういう山を拠点に「真言密教を庶民まで広める」という一大事業に乗り出すとき、「神様、お守りください」と祈った弘法大師が、私には誠に日本人らしく思えるのです。

高野山の守護神、「明神さん」の役割

その弘法大師の姿勢は弟子たちによって守られてきました。現在も高野山では、丹生明神、高野(狩場)明神に、当社に800年前に祀られた気比(けひ)明神、厳島(いくつしま)明神を加えて、「明神さん」として壇上伽藍にある御社(みやしろ)に篤く祀られています。御社の拝殿(山王院)では、僧侶たちの読経毎日欠かさず続けられ、各寺院では「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と弘法大師を称えるとともに、明神さんを称え「南無大明神(なむだいみょうじん)」と唱えられています。
高野山で僧侶になられた方は、100日間の修行「加行(けぎょう)」を終えると、当社に守護を願うお札を納めに来られます。また中堅の方々は「勧学会(かんがくえ)」という法会を勤め、その始めには、「無事勤められますように」との願いをこめて、そして終わりには無事勤められたことを感謝して、当社神前で法楽(読経)を捧げます。
さらに修行を積まれた方々の中から、毎年2名の僧侶が当番として選ばれ、それぞれ寺院内に1年間、「明神さん」をお祀りします。その間、山を下ることは許されず、精進潔斎してその勤めを果たし、さらに山王院において「竪精(りっせい)」という問答講を修めて、高僧の位である「上綱(じょうごう)」と言う地位に就かれます。
これらの行事からは真言密教という尊い教えを学ぶ課程において、「明神さん」が守護神としての役割を果たしていることがうかがえます。
また、御社は20年に一度、屋根の桧皮葺(ひわだぶ)きを葺替え改修することになっています。その間、神さまには別の場所に仮住まい願い、竣工後お戻りいただくのですが、その際には遷座祭という祭儀があります。いずれも明治の神仏分離令が出る前は、当社の惣神主が奉仕しておりました。
平成16年高野山からお話があり、およそ130年ぶりに私たちがその遷座祭に奉仕させていただくことになりました。丹生家文書を頼りに、古来の形式により近い形を模索し、当日を迎えました。神道式の祓いに始まり、祝詞奏上(のりとそうじょう)高野山の僧侶の方々の読経、200名からの遷座の行列が壇上伽藍を進みました。何の違和感もなく進んでいく儀式に、当社の神主が奉仕から遠ざかっている間も、僧侶の方々によって神祀りの形が守られていたことが感じられ、深い感銘を覚えました。
現在、世界中で宗教紛争が起こり、この瞬間にもたくさんの尊い命が失われています。日本人には宗教の違いでこのようなことが起こるのが理解できません。これは、我が国では古くから神と仏が共存し、守るべきものは守り、受け入れるべきものは受け入れてきた日本人の民族の精神によるものです。また、自然との共存が忘れられた今、自然破壊が進み地球温暖化は待ったなしの状況です。今こそ我々が先祖から受け継いだ、世界的には「ユニークな」宗教的融和のこころと、自然を敬い共存する精神が求められています。
(丹生都比売神社 宮司 丹生晃市 談 34~36頁・本文のみ)